中尊寺の歴史は西暦850年、嘉祥3年まで遡ります。
天台宗の高僧だった慈覚大師円仁が岩手県平泉町に
開いたお寺で、当時の名称は弘台寿院で、この時はまだ
中尊寺という名称ではなかったのです。
そして後の西暦1105年、長治2年に
奥州藤原氏初代清衡公が長い時間をかけて、
戦で亡くなった多くの人々の霊を慰めるため、
そして仏国土の建設にと多くの堂塔伽藍の建立に着手し、
天皇より【中尊寺】の寺号を与えられ、
弘台寿院から中尊寺となったのです。
中尊寺の名の意味にはいくつか言い伝えがあり、
「東北地方の中心という意味である」
または
「どのような辺境の地であったとしても、自分にとって
今居る場所が 仏様の世界とされる法界の中心だ」
など、中尊寺の名前にはこれらの意味が
込められているとされています。
ちなみに天台宗の高僧だった慈覚大師円仁は
中尊寺の他にも同県に毛越寺、山形県には立石寺、
秋田県には蚶満寺、青森県には円通寺と東北地方に
多くの寺を開いてきた人物です。
奥州藤原氏が滅亡したのは西暦1189年(文治5年)で、
棟梁を源頼朝とした鎌倉の軍勢が東北地方に兵を向けたためと
されています。
「吾妻鏡」によると灰になった平泉の町には
人影すらなかったと記されています。
源頼朝は平泉にあるお寺を巡礼し、その仏教文化に感銘し
鎌倉に永福寺(二階堂)を建立しました。
この鎌倉に建てられた永福寺(二階堂)は
中尊寺二階大堂を手本として建立されたものなのです。
源頼朝の命により平泉の安全が保たれ中尊寺は
存続が約束されるはずでしたが、奥州藤原氏を失った
中尊寺や平泉内の他の寺院は、何度か修理を繰り返すも
徐々に荒廃していきました。
しかし時代が変わり、南北朝時代になると平泉の管轄が
源頼朝から鎮守府将軍北畠顕家となりました。
北畠顕家は「中尊寺建立供養願文」を書き写すことで
何故藤原清衡公は中尊寺を建立したのかその願いや想い、
そして往時の伽藍がどうであったかを後世に伝えようとしました。
これが中尊寺の第一級史料として今に伝えられています。
また建立されてから中尊寺は大きな火災に見舞われたことも
ありますが、当時の戦乱と貧困の世の中でも寺宝とされる
金色堂や中尊寺経は守られ、今に受け継がれているのです。
時代は戦国時代。
平泉の寺院の荒廃は更に進んでいきます。
現在、【紺紙金銀字交書一切経】
(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)
通称、『中尊寺経』は高野山、観心寺などに所蔵されています。
この中尊寺経は豊臣秀吉が小田原北条氏を降ろし
、東北地方に仕置きをした時に
【金銀字一切経】 (きんぎんじいっさいきょう)
【金字一切経】 (きんじいっさいきょう)
を共に京都伏見に運び出したものなのです。
【金銀字一切経】、【金字一切経】は
中尊寺の秘宝であり、京都伏見に運び出された数は
実に4000巻以上と言われております。
江戸時代になると、平泉は伊達藩領となります。
この時、伊達正宗を始め累代の藩主は
中尊寺の所有する領地を保護し、
旧跡を保存する事に力を注ぎました。
寺の収入に安堵した歴代の伊達公は
堂社の修理をするなどして中尊寺を
大切にしてきたのです。
現在、中尊寺の参道に立ち並ぶ杉は
樹齢350年となりますが、実は
この老杉は江戸時代に寺領の保護・旧跡の保存に
力を注いだ時に植えられたものです。
更に山内に建てられている高館の義経堂など、
堂の多くは江戸時代に建てられました。
西暦1665年(寛文5年)には江戸幕府による
寺社政策で中尊寺や毛越寺、達谷窟西光寺が
東叡山寛永寺直下の末寺になり、
更に15年後、中尊寺の別当職を兼帯したのが
仙台東照宮別当仙岳院亮栄となりました。
